2008年12月26日金曜日

言語習得について(過去のブログから)

 2007年1月21日にとあるブログに書いていた2つのエントリーを無くさないためにこちらにお引っ越し。

19年ぶり発見の娘…半分野生化 カンボジア
2007-01-21 00:41:30
テーマ:ブログ
1月19日に産経新聞より配信されたニュース。短いので引用を。

【バンコク=岩田智雄】カンボジア北東部のラタナキリ州で19年前に行方不明になっていた少女が18日までに無事に保護された。少女は現在27歳。言葉はほとんど話せず、与えられた衣服を脱いでしまうなど半分野生化した様子だという。 

 AP通信によると、この女性はロチョム・プニンさん。1988年、8歳のときに家畜の水牛の群れを追ったまま行方不明になった。同州の村で最近、弁当箱から食べ物がなくなる被害が相次ぎ、村人が付近で張り込んでいたところ、米を盗もうとした女性を発見。父親が腕に残った傷跡で、行方不明となった娘と確認した。

 父親は娘の様子を「かがんで歩く姿勢がサルのように変わっており、骨と皮しかない。目はトラのように赤い」と話している。

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人間は遺伝子によって成長するのか、あるいは環境によって成長するのか、という議論があるけど、このニュースを見る限りは、やはり環境の果たす要因は大きい。ポイントとなるのは「言語はほとんど話せず」という所。普通に成長した日本人であったとしても、日本語に触れる機会が無い環境に数十年間いれば日本語を忘れてしまうのは、数十年ぶりに帰還した日本兵の人(名前忘れた)や数年前にロシアかどこかから帰ってきた人の姿を見れば一目瞭然。

このような悲しいニュースも言語学者の目から見るとまた違う視点が。そもそも言語を習得するには思春期が目安と言われていて、思春期を過ぎると言語を習得するのは無理だという意見がある。それを何とか実証したいけれども、思春期まで言語を喋らない人なんて普通にはありえない。。。けれども、以前にもいたんですね、そういう人たちが。

例えばジーニーという女の子。この子は虐待により小部屋に閉じ込められ言葉に触れることが無かったという子供。あるいはアマラ、カマラという女の子は狼に育てられ、発見されたときには生肉を食べたり、うなり声を上げたり、言葉はほとんど話せない、まさに野生の動物そのものだったとか。

この2つの例は非常に有名な例なのですが、そこで何をするかというと、言語学者がしゃしゃり出て来て、助けてあげるふりをして(語弊があるか)観察する訳ですね。そして、どちらの2例においても言語を習得することができなかったから、ということで、「ほら、やっぱり思春期を過ぎると言語は喋れないでしょ」という結論に。

おそらく、今回も言語学者たちは興味津々のはず。まぁ、今回ばかりは対象が27歳なので、はっきり言って言語の習得はまず不可能でしょうが。。。

言語学をはじめとして、科学と名がつくものは実は残酷なものなのです。しかし、どうなんだろね、27歳にもなって発見されたこの子は幸せなんだろうか。。。おそらく順応できず辛いことばかりだろう。でも、一度発見した限りは、野生に返してあげるなんてとんでもない、という話になるだろうしね。

Genieの話
2007-01-21 01:48:27
テーマ:ブログ

言語習得の世界ではあまりにも有名な話、Genie(ジーニー)。実際「ことばを知らなかった少女ジーニー―精神言語学研究の記録 」という本も購入したけど、読む時間が取れていなかった。

ということで、Wikipedia(英語版)から備忘録的にまとめておきたい。

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1970年11月4日 アメリカで野生化した状態で発見される。

ジーニーは1957年生まれ。名前は未公表。両親のうち、母は視覚障害、父(妻の20歳年上)は自分の母親がひき逃げされたショックにより精神的に不安定。ジーニーは生後20ヶ月のとき、医者に「軽い知能障害の恐れあり」と診断される。父親はそれを「重度の知能障害」と思い込み、子供を守る名目でジーニーを閉じ込めることにした。

ジーニーは彼女の人生を寝室で閉じ込められて育った。昼間はおまるにおしめをした状態でしばりつけられ、夜は寝袋に入れられた状態で金属製のふたのついたベビーベッドに閉じ込められたのある。父親は、彼女が声を上げようとする度に折檻を加え、犬のような唸り声をあげてジーニーを威嚇した。また母親や息子にもジーニーに話しかけることを禁じました。その結果ジーニーは「やめて(stopit)」や「もういや(nomore)」といった言葉以外は喋らなくなったのである。

ジーニーが発見されたのは13歳のとき。母親が彼女を連れて家から逃げ出したのである。母親はジーニーを連れて、盲目の人に与えれる補助金が得られるかどうかを確かめにカリフォルニアの福利厚生施設に行った。そこでソーシャルワーカーがジーニーを見たとき、おそらく6,7歳で自閉症なんだろうと思ったらしいが、実際には13歳だとわかったとき、慌てて上司に報告をし警察に通報した。両親は幼児虐待で告訴され、ジーニーは小児病院に入院した。父親はジーニーが発見された直後、自殺をしてしまった。

人生ではじめて解放されたジーニーは、手を顔の前に出し飛び跳ねたりする「うさぎ跳び」をやるようになった。それよりも困るのは所構わず自慰行為をすることであった。そして自慰行為をするために必要なものを執拗に欲しがった。

このような状況にもかかわらず、病院のスタッフは彼女が回復することを願っていた。そしてこの事件が有名になったとき、果たして言語習得の年齢に限界はあるのかどうかが興味を持たれるようになった。数ヵ月後、1語レベルの発話はできるようになり、服も着るようになったため、誰もが成功を確信した。このプロジェクトを進行させるため、心理学者が代理親の役を買って出た。

最初の里親になったのはJean Butlerである。しかし、これは彼女が自分自身が有名になりたいという陰謀であったともうわさされている。Jeanは病院においてジーニーの教師をしていたが、ある日自身が水疱瘡にかかっている疑いがあり、ジーニーに感染してしまったかもしれないと主張する。そして、ジーニーを隔離するために自分の家に連れて帰ったのだ。最初は一時的なものの予定であったが、それを恒久的なものにして欲しいと彼女は請求した。Jeanは他の病院スタッフの接触を遠ざけ、自分自身でジーニーを観察した。そこで記録に残したのが、彼女がものを溜め込むという性質であった(虐待された子供によく見られる症状)。

彼女はその後里親になる権利を主張したが、却下された。

次の里親になったのは、セラピストDavid Riglerであった。そして彼の妻Marilynが教師の役割をつとめた。結局ジーニーは4年間この家庭ですごすことになったが、怒りをコントロールすること、簡単な手話、そして言葉で表現できないときは絵を描く、そして笑うことを覚えた。この時期には自分の虐待の様子についても受け答えができるようになった。以下は一例。

MARILYN RIGLER: Where did you stay when you lived at home?   
Where did you live? Where did you sleep?
GENIE: Potty chair.
MARILYN RIGLER: You slept in the potty chair?
GENIE: Mmm-hmm. Potty chair.

しかし1974年、このプロジェクトを支援していた研究所は研究の成果が見られないとして、補助金の削減を決定。Davidも里親を続けることを諦めた。この時点でジーニーは文法も習得できておらず、「アップルソース、買う、お店(Applesauce buy store)」レベルの発話しかできなかった。

1975年、ジーニーは再び母親のもとに戻るが、あまりにもジーニーを育てるのが難しかったため、今度は児童保護施設を6箇所も転々とすることになる。いくつかの場所では虐待されいじめられたため、彼女はまた黙り込んでしまうという状態に逆戻りしてしまった。また新たに口を開けなくなるという症状も付け加わった。これは、ある日ジーニーが吐いてしまった時にひどい処罰を受けたため、それを恐れてのものだと考えられる。

さすがに、研究の成果を追求することばかりに躍起になっている研究者たちに嫌気がした母親は研究者を訴えた。訴訟は解決したが、研究の記録はここでとだえている。

彼女は現在カリフォルニア在住。保護された成人保護施設で暮らしている。場所は明らかにされていない。母親は2002-3年に死亡。兄もどこかで生存している。
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今まで概要しか知らなかったけど、まとめてみると「事実は小説よりも奇なり」という言葉がよく当てはまる。

虐待を受けると現れがちな症状。というのは現代にも共通する気がします。

言語学的視点から考えると「言語の習得には年齢の限界がある」という結論に結びつけるのはちょっと難しいかも。だってまず最初にお医者さんが「軽い知能障害の恐れあり」と言っていること、あとあれだけ非日常的な毎日を過ごしてきた人が普通に言語を習得する、というのはやはり不可能ではないか、と。。。だから年齢=言語習得、というよりも環境=言語習得、という関連の方が強いのではないだろうか。

2008年12月10日水曜日

時代は無料へ

大学教員として研究に必要なハードウェアやソフトウェアに年間莫大なお金を注ぎ込んでいる訳なのですが,一昔前ノートパソコンが数十万円した時代から比べると,携帯電話のカラクリならぬイーモバイルが仕掛けた100円パソコン(もちろん最終的には数万円払わざるを得ないのだけど)をはじめとして価格破壊が起きてきました。

 ということで,普通ならお金を払うべきものが無料で手に入ってしまうものの中で気になっているもの(既に試した物も含む)を幾つか。

OS:Ubuntu(http://www.ubuntulinux.jp/
 Linuxの一種。インストールした時点でワープロ等必要なソフトは全部インストールされている。インストールにちょっと手間取ってしまうかもしれないけど,視覚効果など使って楽しいOS。学会発表なんかで使うと驚かれること間違いなし。一応たまーに使ってみるのだけど,完全に移行する勇気は無し。

ワープロ:OpenOffice(http://ja.openoffice.org/
言わずもがな。マイクロソフトの陰謀から逃れましょう。しかし微妙にフォーマットがずれるのかなぁと考えるとやっぱりマイクロソフト製品を使ってしまう。。。

統計処理:R
 とにかく凄いのですよ。通常なら数十万円する物が無料なんですから!但し上級者向け。僕はダウンロードして挫折しました。誰か使い方教えてくれー。

Google(http://www.google.com/
 メールやらカレンダーやらブックマークやら。カレンダーはmacのicalと同期可能。オンライン上にデータを置くことで場所を問わず仕事を効率的に行えるようになります。但しデータ流出の問題もあったので注意は必要。

ZOHO(http://www.zoho.jp/
 タスク管理やメールなど。なんでもかんでも出来てしまうのです。

オンライン付箋サービスlino(http://linoit.com/
 付箋をデジタル化して覚え書き。

Remember The Milk(http://www.rememberthemilk.com/
 オンラインでタスク管理。googleカレンダーとも連携しています。

 その他無料のソフト一覧なら,
http://sourceforge.jp/
 USBメモリに入れて持ち運べる無料ソフト一覧なら
http://portableapps.com/

 などが便利。最近仕事の大部分がコンピュータ,特にオンライン上に移行。個人情報はさすがにオンライン上には上げないのだけど,時代は変わったもんですな。

2008年12月8日月曜日

大学教育学会課題研究集会雑感その2

2日目

『大学人』能力開発に向けてー国立大学の現在ー」
 シンポジストは東京大学貝田綾子氏,山形大学山崎淳一郎氏,京都大学山本淳二氏,東北大学羽田貴史先生。職員さんがそれぞれの大学の現状を説明してくれたのだが,興味深かった事柄を箇条書きしておく。

東京大学
職員数:7600名(教職員4000人,職員3600人)

・ワーキンググループの設置及び業務改善提案の募集。
・優秀な提案は表彰する。
・目安箱の設置。
・「東京大学職員キャリアガイド」の作成
(学校経理研究会より販売1050円)

山形大学
・平成9~13年度における入試過誤(不合格となった受験生428名,合格となった学生41
 3名)を契機に改革。
・エリアキャンパスもがみ:大学固有の教育施設を持たない。

京都大学
(省略)

羽田貴史先生「国立大学事務職員論から「大学人論」へ」
 話がとにかく面白かった。大学教員でこうした研究をしていることが興味深い。しかし偏見かもしれないが,国公立大学には独特の閉鎖性があると感じた。


「FDのダイナミックスーFDモデル構築へむけた今後の課題」
シンポジストとして名古屋大学夏目達也先生,京都大学田中毎実先生,元ICU学長絹川正吉先生,コメンテーターとして立教学院本部調査役寺崎昌男先生,司会者として慶応義塾大学井下理先生,京都大学大塚雄作先生。

FDが努力から実施義務へと変わることにより,今後の方向性について提言が行われた。詳細省略

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 第1日目は非常に興味深かったが,2日目に関しては事実確認的なことが多かったので,自分の意見を言うというよりは勉強をさせてもらった。専門領域の人たちで集まって細かい部分を突き合う学会が多い中で,専門領域の枠を超えて,また教職員の枠を超えて意見交換をし合うというこの学会こそがまさに今後の大学のあるべき姿を示そうとしているのかもしれない。「教える」ということに関心を持っている人が多い学会(のはず)なので,的外れな質問,訳の分からない質問,聞き取れない質問,などに関しては容赦なく指摘があるというのも面白い。というか,そういう聞き手のことを全く考えていない質問を多くする人がこういった学会にもいるんだなぁというのが驚き。印象に残ったのは哲学を専門にされる先生方の発言が多かったこと。教育=哲学という構図は当然のことではあるのだけれど,他の学会ではなかなか見られないものだけに面白かった。

大学教育学会課題研究集会雑感その1

 2008年12月6日(土曜日),7日(日曜日)に岡山大学で行われた大学教育学会課題研究集会に参加した。こういった学会があるということさえ知らなかったのだけれど,現在の勤務先でしている仕事の関係から初参加となった。個人会員で950人,そして当日も350人が参加するなど盛況であった。
 今回の統一テーマは「学生の主体的な学びを広げるために」で,1日目に4時間にわたる開催校企画の特別シンポジウム,二日目は2会場に分かれて「学士課程教育の改革へのアプローチをどのように進めるか」,「『大学人』能力開発に向けてー国立大学の現在ー」,「FDのダイナミックスーFDモデル構築へむけた今後の課題」,「科学技術リテラシー教育と『学士力』の育成」のそれぞれのテーマでシンポジウムが行われた。以下自分が参加したシンポジウムの概要と感想。

開催校企画特別シンポジウム「学生の主体的な学びを広げるために」
 シンポジストとして岡山大学の学部生小林歩美さん,読売新聞社東京本社記者の松本美奈さん,京都市立堀川高校校長荒瀬克己先生,岡山大学教育開発センター教授の橋本勝さんが登壇し,それぞれ約20分程度で発表を行った後,京都大学高等教育研究開発推進センター教授の松下佳代先生がショートコメントと称してコメントをしていく形式。司会者は倉敷芸術科学大学の小山悦司先生,くらしき作陽大学の山野井敦徳先生であった。

小林歩美さん「学生は自主的な学びができている」
 授業以外に学生がどのように自主的に勉強しているかを,友人たちから聞いたエピソードをもとに紹介。発表がどうとか言うよりもしっかりしている学生さんだなあと思った。

松本美奈さん「学生の主体的な学びのために」
 「大学の実力 教育力向上への取り組み」という全国調査に携わっている人。その結果を交えながらの報告。学生の「負け犬意識」をいかに取り除くか,そのために発言をした人にクラス全員が拍手をしてあげるなどの試みをしている授業もある。学生を変える鍵は,教育に関わる人に夢があるか,夢を語れるかということ。大学だけではなく,初等,中等教育との連携も必要であると主張されていた。研究者ではないので非常に分かりやすい発表であった。ただこういった全国調査を首都で行っている人は地方大学での取り組みを客観的に評価してくれているのだろうかという疑問は残る。

荒瀬克己先生「内発を促す外発の模索」
 外部から見るように堀川高校は一流の学生ばかりが入ってくるのではないということ(偏差値50以下~70までの多様性)を提示した上で,探究科と呼ばれるコースを設置し主体的に学ぶ学生を育成する試み等を紹介された。大学に責任を押し付けるのではなく,高校として質を保証していくという考えには共鳴できた。高校教育における二兎(入試実績と本来の高等教育)を追いかけることなどについても話をされたが,とにかく話の面白い人,キーワード的な発言の多い人,聞いていて飽きない発表。

橋本勝先生「主体的な学びにおける自由度」
 teachingからlearningへの流れを実践し,教えることから撤退し,橋本メソッドを確立したと主張された。よく二項対立で「teachingあるいはlearning」,「知識の伝達あるいは学びの支援」,「強制あるいは自由」などと論じられるが,あれあるいはこれといった議論に陥らないことが必要であると言われていた。今回の課題研究集会の前後に実際の授業参観ができたのだけれど,残念ながら参加は断念。本が出版されるらしいです,近々。

松下佳代先生「主体的な学びの原点」
 それぞれの先生方の発表をまとめられた上で客観的な解説をされた。「主体的な学び」という時には「能動的学習」と「学生参画型授業」の2つのアプローチがあるということ。そして「主体的な学び」は「質の高い学び(deep learning)」を保証するのかという問題。その際には外から観察できる外的側面と精神的な活動である内的側面を区別しておく必要があるということ。学びを促すためには認知的,社会人知的コンフリクトが重要であることも指摘された。
 個人的には非常に参考になった。今まで自分が授業をしていてもやもやしていたことが文字化されてすっきり。

 この後休憩をはさみ橋本先生の授業を実際に受講している学生も交えて討論が行われたのだが,教員にとっては非常に分かりやすいテーマであったため盛り上がった。内容は盛り沢山すぎるので割愛するが,興味深かった言葉等を列挙しておく。

・自由といえども学ぶ側の自由であって教える側の自由ではない。自由を保障するためにはそれ
 なりの仕組みが必要。
・何を学ぶかをゆるやかに設定
・育てたように育つ
・高大接続テスト(仮称)を検討中
・学習習慣が身に付いていない=否定的に捉えるだけではなく肯定的にも捉えられる。
・評定ではなく評価に価値がある
・水は低きに流れるが学びは高きに向かう
・1浪当然,2浪悠然,3浪呆然,4浪唖然,現役偶然
・橋本先生の授業は面白いが,聴講する理由の1つは楽勝科目だから

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 「主体的な学び」=「質の高い学び」なのか,主体的な学びじゃなきゃだめなのか。教えることにおいては強制的に何かを学ばせる仕掛けも必要なのではないだろうか。自由に学ばせるだけでは,学生は学んだ気になっただけで学んでいない場合も多い。そういった意味においては「主体的な学び」にみせかけた教育を行うことにより,「学んだ実感」を体験させるという表現の方が個人的にはしっくりくるかもしれない。

2008年12月3日水曜日

景観の破壊

 全国的に有名になっているのかどうかは知らないけれど,福山市の架橋問題には関心がある(
参考:「鞆の浦の埋め立て架橋問題」http://swan.srv7.biz/tomo15.htm)。それに対する藤田広島県知事の「あんな景観どこにでもあるでしょう」的な発言も非常に気になる。結局景観を壊してまで橋をかけるのでしょうか。利便性を追求するのにも一理あるにせよ,もう少し慎重な姿勢があっても良いんじゃないでしょうかね。自然を壊すのは簡単だけど,回復させるのはとても大変なのだから。これは最近話題になっている道路の建設に賛成する人たちにも言えることではあるけれど。
 日本の現状を憂うAlex Kerrさんの著書は読んでみる価値があると思う。彼の意見にも賛否両論あるのだろうけれど,個人的には共感する部分がとても多いのです。周りを見渡せば鉄塔だらけ(この前外国から来た人もあまりの鉄塔の多さに驚いていました)。日常に疲れて自然に触れようと思えば車に乗って長旅をしなければいけない現状は考え直すべき。そして結局は辿り着いても観光地化されており,人工的で無味乾燥な場所になってしまっていたり。
 人口が今後減っていく日本において経済的な裕福さだけではなく,精神的な裕福さを追求する時代になると良いと思う。自然を見れば心が癒されるのは万人共通。空き地が出来れば建造物を立てるだけではなく,必要なくなった建造物を取り壊して緑地化するなんてアプローチがあっても良いのでは。まあ,素人の浅はかな考えではあるけれど。。。

「Alex Kerrさんのホームページ」http://www.alex-kerr.com/www_index.html