2012年3月13日火曜日

あれから1年〜twitterのつぶやきを中心に振り返る〜

2012年3月11日で,東日本大震災から1年が経過しました。これまで震災について語ることを避けてきましたが,1年経過したということで自分のtwitterのつぶやきを読み直してまとめてみます。

2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒(日本時間)、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmの海底を震源として発生した東北地方太平洋沖地震は、日本における観測史上最大の規模、マグニチュード (Mw) 9.0を記録し最大震度は7で、震源域は岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、東西約200kmの広範囲に及んだ。この地震により、場所によっては波高10m以上、最大遡上高40.0mにも上る大津波が発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらした(Wikipediaからの引用)。

当日は普通に大学で仕事をしていました。冬期休暇中でもありゆったりとした気持ちで学習支援センターでtwitterを立ち上げながら仕事をしていました。そしてその時間,twitter上に「揺れた」「大きい」といったことばが溢れ出しました。被害が大きくない地震であればその場限りでつぶやきは消え去るのですが,その日はいつまで経っても消えません。慌ててテレビのある部屋に駆け込んで見た津波の映像,そして日本列島全域に発せられた津波警報。何人かの職員の人たちと呆然とテレビの映像を眺めていました。筆舌に尽くしがたい嘘のような映像。アナウンサーが「行方不明者は・・・,死者は・・・。」と小さな数字を繰り返し伝えていましたが,被害が大きくなることは誰の目から見ても明らかでした。当日は夕食は外で食べる計画をしていましたが,沿岸部に住んでいたこともあり急遽キャンセルし,恐怖を抱いて急いで家に帰ったのを覚えています。世界各地の友人から心配してメッセージや電話がありました。中でもシンガポールの友人からもらったことば,”Take care and stay strong.”は今でも忘れられない。

それ以降はしばらくtwitterで日常のことをつぶやきくのを止めました。広島は幸いなことに被害がなかったものの,日常をつぶやくことに何となく気が引けたからです。twitter上には世界中から励ましのメッセージが#prayforjapanというハッシュタグで流れてきました。後になってから,twitterのサーバだけはダウンしたなかったということで,「twitterは災害に強い」という評価が定着しました。避難場所や被爆に対する心構え,行方不明者の捜索など数多くのつぶやきがリツイート(拡散)されました。僕が注意したのは,地震に対する事実に関することだけをツイートすること。実際,地震以降,明らかなデマや嘘の情報が数多く拡散されましたが,一度ネットに出回ってしまった情報は消すことができません。twitterは便利である一方,危険なツールにもなりうることを実感したものです。僕が震災関連でつぶやいたのは主に以下の2つのリンクだけ。


テレビも放送を自粛しました。震災の映像ばかりで,こちらも気分が滅入ってきます。震災の映像の合間に入ってくるのはACのものばかり。3月15日前後にテレビを見るのを意識的に止めました。


3月16日には次のようにつぶやいています。

テレビも一部を除き通常放送に戻ってきた。多くの人が言っているように,被災していない地域の人たちは通常の生活に戻ることが一番大切。
昨日は帰宅途中の路面電車の中であまり聞かない音楽を聴き続けた。今日も通勤途中のバスの中で音楽を聴き続けた。平静を装っていてもみんなの想いは東日本に。

この日以降,ようやく少しだけ震災について語れるようになりました。この時はとにかく日常を送ること,そして学生たちにこういう時だからこそ勇気を持って前向きに生きて欲しいというメッセージを伝えなければいけないと思いました。

個人的には,大学に勤務する人間として印象に残っているのは数多くの学会がキャンセル(あるいは発表申し込みの延期)されたこと,そして東北地方を中心に節電のために大学ホームページが簡易版として表示されるようになったことでした。日常生活においては広島県内でもコンビニの看板の電気がことごとく消えました。震災後はじめて関東に行ったのは2011年6月4日に桜美林大学で開催された大学教育学会でしたが,関東在住の友人の一言は「よくこんな時期に来たな」でした。広島にいるとあまり感じませんが,当時東京ではまだ節電意識が強く,コンビニの店内は異様に暗く,乗った電車も電灯の数を減らし適宜消灯して運行していて驚きました。まだ1日に余震も数多くあり,西日本と東日本での意識の違いを痛感した出来事です。

2011年8月20-21日は山形大学で開催された全国英語教育学会に参加しました。同じ東北地方ではありますが,幸いなことに被害は小さかったようです。今年度はこれで山形に行くのは最後だろうと思っていたら,何と11月26-27日に山形で開催された大学教育学会に出張することになりました。1年のうちに同じ土地に学会出張で行くのは滅多にないことです。前回の経験から山形と宮城はバスで1時間程度ということを知っていた僕は,学会終了後,宮城県仙台市を訪れてみようと思いました。時間は限られているけど,震災の影響をこの目で見ておかなければいけない気がしたからです。訪れたのは宮城県多賀城市の辺りです。すごく気が引けたのですが,タクシー運転手に事情を説明し,案内してもらいました。道中いろんなことを話してもらいました。一見すると瓦礫もきれいに片付けられていますが,住宅地が丸ごと流されてしまった地区があり,そこで佇んで会話をする家族。流された家があった場所に,以前あった灯籠などを探し出して集めて来ている人(悲しそうな目が印象的でした)。津波で折れ曲がったポールのある駐車場でキャッチボールをする親子。写真を記録として残そうと思った1時間でしたが,写真を撮る気になれませんでした。運転手さんが促すように,「写真を撮りますか?」と言う時にやっと撮るだけで,そんな気になれなかったのです。被災地での戦いはまだ続いている,そしてその中でもたくましく日常を送っている人がいる。月並みだけどそんなことを感じました。

今年卒業する子たちの中には卒業研究のテーマとして,「震災」に関連することを選んだ人たちが15名中2名いました。学生たちが必死に今回の出来事を理解しようとしている姿を見て,僕自身被災地を自分の目で見ておきたいという思いがありました。コメントは付けませんが,その時に撮った写真をアップロードしておきます。

東日本大震災から1年が経過しました。それを契機にテレビ局がここぞとばかりに特集で映像を繰り返し流しました。僕にはまだこれらの映像をじっくり眺める勇気がありませんでした。震災について語ることを避けてきたのも,勇気がなかったからでしょう。このブログは誰かにメッセージを伝えたいというよりも自分の気持ちを一度整理しておきたいという思いから書いたような気がします。

さいごに:2011年ユーキャン新語・流行語大賞には震災関連の語が数多くノミネートされましたが,大賞は「なでしこジャパン」でした。何だかとても日本的な選出な気がするのは私だけでしょうか・・・。







0 件のコメント: